以下はhttp://www.tctv.ne.jp/kappa/index.html「河童村村議会」より資料として引用・転載・抜粋させていただきました。
素晴らしいサイトですので、是非同サイトも御訪問下さい。

 
     曹源寺(河童寺)
  巨嶽山曹源寺は、天正一六年(1588)5月、用山元照大和尚によって、現在の和田倉門付近に開創されました。
用山元照大和尚は、江戸三大学問どころの一つ、栴檀林と称し、漢学では随一に数えられる吉祥寺(文京区)の五世で、
徳川家康が常に師として礼を欠かさなかったと伝えられる高層です。
明暦三年(1657)一月本郷本妙寺より出火した振袖火事(明暦の大火)により、本尊、諸尊像は無事に搬出したものの、
諸堂宇は灰燼と帰してしまいました。
幕府より、新寺町(現、松が谷)に境内地一六五一坪を拝領して移転しました。

天明六年(1786)七月、折からふりつづいた大雨によって下町一帯は洪水となり、湿地帯を造成した曹源寺付近は船で往来したほどでした。 

 二間半ばかりの新堀川の水はけが悪く、町の人々は大雨毎に難渋しました。
これを見かねた合羽商を営む合羽屋喜八(通称合羽屋川太郎)が私財を投じて水捌け工事を行い、遂にこれを完成しました。
昼は人間が作業をし、夜は喜八の義挙に感動した多くの隅田川の河童がこの工事を手伝ったと言い伝えが残されています。
文化十一年(1814)一月三十一日、合羽屋喜八が没し、菩提寺である曹源寺に葬られました。
以来曹源寺は俗に「かっぱ寺」ともよばれ、人々の厚い信仰が寄せられました。
 

 現在、喜八の義挙に感銘した人達により、河童堂が建立され、地元の鎮守として崇められています。
又河童堂の天井には著名な漫画家の河童の絵やお堂の中には河童の手のミイラが展示されています。

合羽屋喜八の墓は波形の台石の上にあり上部は皿のような水鉢をいただき、正面には「てっぺんへ手向けの水や川太郎」の句が刻まれています。
商売繁盛、火水難除等の霊験著しいといわれ、今も厚い信仰が寄せられています。
庫裏の方に声をかければご祈祷はいつでも受けられます。
毎年、八月二十三日には曹源寺住職による河童祭りが執り行われ、何方でも事前にお知らせいただければ参加できます。 





曹源寺 そのA


以下の文章はhttp://www.asahi-net.or.jp/~HC2S-OZW/index.html 「浅草散歩」より資料として引用・転載・抜粋させていただきました。
素晴らしいサイトですので、是非同サイトも御訪問下さい。

 かっぱ寺のほんとうの名前は、曹源寺といいます。江戸時代の文化年間(1804〜17)にこの辺りに雨合羽商を営む通称合羽川太郎、
本名合羽屋喜八という人が住んでいました。この付近は千束池跡で土地も低く水はけがとても悪く、雨が降るとたちまち出水し住民は
苦労をしていました。そこで川太郎は資財を投じ排水のための掘割工事に取りかかったところ、かつて川太郎に命を助けられた河童が
工事を手伝い完成させたのだそうです。この河童を見た人は勝運が開けたとされ、河童大明神として祭ったといいます。表面に
「てっぺんに手向けの水や川太郎」の句を刻む墓碑は川太郎の墓とされています。

 合羽橋は現在の通称「合羽橋道具街」を流れていた新堀川にかけられていた橋の一つであり、雨合羽屋喜八の徳を偲んで名付けられたと
考えられています。新堀川は昭和の初めころまでに暗渠となりました。






曹源寺 そのB

以下の文章はあるご高年者の回顧文です。


「私は明治35年6月15日にこの曹源寺で生まれました。3,4歳のころを思うと、寺の裏方は全部蓮田だったようで、それが入谷田んぼに
続いていたんです。
農家は殆どレンコンを作っていました。そもそもが低地帯で、海の続きだったらしく、今でも掘るとカキ殻が出てくるんですよ。
私が小さい頃、既に寺門の前の合羽橋通りは、東京でもメーンストリートでしたね。狭いんですが、かっては御成道といって、将軍様が
上野寛永寺へお詣りに来て、それから浅草の観音様へお詣りするのに、ここを通ったわけです。」

「当時の合羽橋は、長さ4メートルぐらいの木橋で、おはぐろどぶを通って蓮田の水が合羽橋に流れていました。この曹源寺はカッパ寺の
通称があるんですが、まあ江戸は文化年間の話ですが聞いて下さい。この近所、雨合羽の製造屋というのが数多くあったようで、その中で
合羽屋喜八という人が、合羽川太郎というあだ名なんですが、この人、律儀で欲がなく、雨合羽はよそより売れるということでいつの間にか
千両箱を積む程になりました。曹源寺の前には池があって、昔のことだから根深い池にはカッパが住んでいたそうで、ある日、川太郎が
池の淵を通ると、近所の子供たちがカッパの子供を捕まえていじめている。それを見てかわいそうだからと子供に穴銭をやって逃がして
やるんです。
そのカッパは大きくなってから隅田川に住みついたもんでしょう。こういう話はよくある話ですが、ともかくカッパをいじめている、それを律儀な
男が助けてやる。男が困ったときにカッパが恩返しをするというやつですね。川太郎は、この辺が3日も雨が続づくと水が出て、それで住民が
困っているのをみかねて、もうけたお金を地元のために使おうと、、支流をつくり、水利工事をしたんです。それがなかなか工事がはかどらなくて
川太郎は途中で困ってしまうのです。その時ですね。助けられたカッパが夜出てきて、手伝いをして、すっかり堀割工事は完成しましてね。
この寺に入るにも、大正のはじめ頃までは1間ぐらいのどぶをまたいで寺へ入った、そういう支流を近所にたくさんつくってね。川太郎は
この寺の檀家ですが、堀割工事が完成して安心したのか急に死んでしまうのです。金を水利工事に使い果たした葬式の費用もないありさまで、
近所の人が金をかき集めて葬式を出したといいます。」

 

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以下はhttp://www.tctv.ne.jp/kappa/index.html「河童村村議会」より資料として引用・転載・抜粋させていただきました。
素晴らしいサイトですので、是非同サイトも御訪問下さい。

河童寺(曹源寺)に伝わるかっぱの手のミイラ

      

              箱には水虎之手と書いてある


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 浅茅が原の一つ家の鬼婆伝説  

浅草観音にまつわる伝説として「一つ家の鬼婆」が有名である。陸奥の安達が原伝説と類型のものである。国芳がこれを題材に絵馬を
描いている。大変な評判となり、歌舞伎狂言にも取り上げられた。

浅茅が原に老婆が一人娘とともに住んでいた。老婆は旅人に娘を夜伽させ、石枕に寝かせ頭をうち砕き、物品を奪って暮らしていた。
殺害には上から石を落としたとも、刃物を用いたともいわれる。 その数は既に999人に達していた。
ある日美しい若者が宿を乞うた。いつものように老婆は娘に命じたが、娘は若者の気高さ、美しさに心を動かし、若者の命を助けると共に、
母親に改心してもらいたいと念じた。娘は若者を逃がし、若者に代わって寝床に伏し、夜具をかぶって寝た。それと知らぬ老婆は、いつもの
ように天井から大石を落とし、娘の頭を砕いて殺してしまった。老婆は、殺した後にその顔を見て腰をぬかした。殺したのはまぎれもなく
自分の娘であった。老婆は娘を殺してしまったことを嘆き悔み、近くの池に身を投げて死んでしまった。それ以来この池を姥ヶ池という。

この伝説は観音信仰と結びつけられ、若者は観音の化身であったという観音利生譚が残っている。
浅茅が原とは現在の浅草周辺で一面葦の原だった一帯を指すが、この伝説の浅茅が原はどの辺を指していたかは定かではない。
しかし現在、浅草花川戸に旧跡が残っている以上、その周辺であったことは間違いないであろう。姥ヶ池は花川戸公園に旧跡があり、
浅草寺には石枕が残されている。すくなくともこの伝説は室町時代から浅草に観音様の御利益とともに語り継がれている。

               
         2003年11月1日〜12月14日 たばこと塩の博物館 大見世物展 生人形 「浅茅が原の一ツ家」










 



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