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懸賞(その2) 難易度 高 ゲーム 浅草に眠る秘宝を発掘せよ !!
出題 本物の財宝は存在しませんが、ある神社のあるご祭神を財宝と見立てて探していただく、リアル宝探しゲーム です。 浅草ミステリーツアー(特に 梅若伝説、沈鐘伝説、一ツ家の鬼婆伝説)および実践 浅草ミステリーツアーが ヒントになっていますので、それを見ていただくことが必要となります。(→目次) なお、以下の話は管理人が勝手に考えた作り話で、全く事実ではありませんので、誤解ありませんよう お願いします。 さあ、浅草の秘宝を発見して、賞品をゲットして下さい。 秘宝のあらすじ
絵地図付古文書の内容(現代語訳)
注@ 隅田川水神沈鐘伝説の水神が祀られている。 下町ミステリーツアー参照 注A 浅茅が原の一ツ家伝説の鬼婆が身を投げた池。現在は公園内の小さな池として整備され、石碑も残る。 注B 梅若伝説の梅若丸の母親、妙亀尼の墓といわれている。 下町ミステリーツアー参照 注C 下町ミステリーツアーには登場しないが、大根と巾着をシンボルにするなど、謎の多い寺院。 待乳山は元は真土山という。 皇祖神アマテラスオオミカミのご両親。日本書紀と古事記とでは同じ神の名でも漢字表記が異なる。 秘宝発見に挑戦(問題)
ヒント
ご注意
正解者の中から抽選で毎月10名様までに景品(財宝)を差し上げます。
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【検証】浅草寺の怪異 牛の妖怪 浅草寺襲撃事件 【浅草寺の怪異事件】 速報!(速報といっても800年近く前の速報ですが・・・)
暴れ牛?そんな訳ないよ〜 (1)浅草寺に乱入したものは 牛そのものか? 妖怪の類か? 人間か? ●暴れ牛説 暴れ牛が浅草寺の食堂に暴れこんだという説を唱える人が多くいるが、「牛の如き」とある以上、牛そのものではないことは明白。 牛に似た何かが浸入したと考えないと、「牛の如き」という表現は成り立たない。 ●妖怪の類 (牛御前の怨霊の化身=牛鬼))説 本当に件(くだん)は毒を僧たちに吐きかけたのだろうか。実は吾妻鏡にはそんなことは何ひとつ書かれてはいない。 当時、この事件を知った人たちは、牛御前の怨霊が牛鬼に変身して襲ったに違いないと思い込んだのは仕方のないことである。 なぜなら、浅草にはこの事件の約200年前から牛御前伝説が伝承されており、牛御前は滅ぼされてもなお牛の妖怪(牛鬼)になって 隅田川周辺にいるものと思われていたからである。(牛御前伝承については、この下であらためてご紹介します。) 妖怪牛鬼といえば、毒を吐いて人を殺し、人を食らうものと昔より信じられていたので、吾妻鏡には「毒を吐きかけた」などとは 全く書かれていないにも関わらず、毒を吐きかけて僧を死傷させたという説がもっともらしい噂として流布され、一般化したようだ。 まず、この世に妖怪や幽霊は存在しないという前提で考えれば、牛の如き者(件)は妖怪の類ではない。 ●人間説 乱入した件は原文では「牛の如き者」となっており、者と表現するくらいであるから、人のような牛ではなく、牛のような人、 つまり牛のような姿をした人間、あるいは牛のような装束を身にまとった人間という可能性が非常に高いということになる。 妖怪や暴れ牛でない以上、これは牛のようないでたちをした人間と考えるのが一番合理的ではないだろうか。 ボクはお食事のお邪魔なんかしませんモ〜ん (2)件の浅草寺乱入の時間帯は何時頃なのか? 牛の如き者が乱入したのは、僧が食堂(ジキドウ)に集まっていた時だから、食事中だったと考えるのが自然だ。 当時の寺僧は(断言はできないが)一日二食であったと思われる。少なくても平安時代までの日本人の食事は、朝夕の二食だった という説が有力だ。その後、朝夕の間に食べた軽いスナック的な中食(チュウジキ)が、やがて昼食となり、一日三食となったと 言われている。 旧暦の3月6日は、現在の暦で3月29日。 3月29日に太陽が地平線から完全に昇りきるのは朝5時35分だ。 当時は照明などの関係で、就寝が現在よりかなり早かったので当然起床も早かった。 一般の人でさえ、ほぼ日没と同時に就寝し、 日の出以前には起床したといわれている。 いわんや寺僧の場合は、それよりかなり早い起床であったのではないだろうか。 そうすると、朝食の時間は午前5時30分より前でも不思議ではなく、まだ日の出前の暗い中での朝食であったと思われる。 では夕食時の可能性はどうだろう。 その日、完全に太陽が沈み切るのは18時である。朝食が早いということと就寝が早いということを 考えれば、夕食は現在よりかなり早く、15時〜16時であったと思われる。そうすると完全な日没まで2時間以上はあり、天候にもよるが まだ外は白昼に近くかなり明るい。 白昼の襲撃も絶対にないとはいえないが、常識的には、暗闇に乗じて行われたであろうから、 事件は旧暦3月6日の浅草寺の朝食時、具体的には午前4時〜午前5時に発生した可能性が高い。 (3)どのような人間が浅草寺を襲撃したのか?
牛嶋神社を宗教的な拠りどころとして活動していたすると、隅田川を渡って、幕府の手厚い庇護を受けていた(仏教の)浅草寺を襲撃する ということもあり得た話である。 そうすると、牛のような怪物に浅草寺が襲われたという話とつじつまが合わないこともなくなってくる。 また、そのように大規模な反幕府集団の存在を公式に認めたくない鎌倉幕府にとっても、反幕府集団に浅草寺が襲われ多数の死傷者が 出たたという事実はあまりにインパクトが大きく、またその事実はとうてい隠しがたかった。 そのため当地が舞台の伝説として残っていた 牛御前の逸話を利用し、幕府側も吾妻鏡の中で反体制勢力を「牛のような怪物」に置き換えて、(牛御前の呪いの仕業であるかのごとく 匂わせて) わずか数行の簡単な記録にとどめたのではないだろうか。人間ではなく怪物や怨霊の仕業であれば、幕府には治安面での 責任がなくなるわけで、幕府の権威が傷つくことはない。 ←日の出前のうす暗く混乱した中でこんな兜を被った人を見たら・・・ そのような政治状況に牛嶋神社が大きく関わっていた(あるいは双方に利用されていた)ような気がしてならない。 (4)何の目的で件は浅草寺を襲撃したのか? 金銀財宝以外はいらないから、 牛黄は神社に奉納しちゃおう!
推論というものは100人がすれば100の推論が成り立つわけで、この推論が絶対に正しいと主張するつもりはありません。 鎌倉時代の歴史に詳しいある方からご意見をいただきました。 これは武蔵の国側と下総の国側のそれぞれの水運利権 争いが絡んでいるのではないか・・・というものです。貴重なご意見ありがとうございました。 是非貴方の推論をメールでお聞かせ下さい。 いずれにせよ牛嶋神社は、大きな謎を秘めた神社である。 ←件(くだん)君 |
牛嶋神社 貞観2年(860年)建立 http://www.dentan.jp/sumida/sumida1.html 古くは現在地より約500m隅田川上流にあったが、関東大震災後隅田公園の設計の都合上昭和の初めに 現在地に再建された。 八世紀初頭、桓武天皇のとき、この地を国営牧場と定めたことから牛嶋の名前がつけられたと思われる。 貞観二年(八六〇年)慈覚大師が御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請して創祀し、後に天之穂日命を祀り、 ついで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でなくなられたのを、弟子の阿闇梨がその神霊を併せてお祀りし 『王子権現』と称した。 貞観二年(八六〇年)に慈覚大師がこの地を通りかかったとき、一人の古老が「師わが為に一宇の神社を建立せよ。 若し国土の悩乱あらば、首び牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わして、天下の安全の守護たらん」と託宣した。 そのことから牛嶋神社は牛御前社とも呼ばれている 治承四年(一一八○年)九月源頼朝が大軍をひきいて下総国から武蔵国に渡ろうとした時、豪雨による洪水の為に 渡ることが出未なかったが時武将千葉介平常胤が祈願し神明の加護によって全軍無事に渡ることができたので、 頼朝はその神徳を尊信して翌養和元年(一一八一年)に社殿を経営し、千葉介平常胤に命じて多くの神領を寄進させた。 永禄十一年(一五六八年)十一月に北条氏直が関東管領であった時、大道寺駿河守景秀が神領を寄進している。 また天文七年(一五三八年)六月二十八日に後奈良院より『牛御前杜』との勅号を賜ったといわれる。 江戸時代に於ては鬼門守護(最勝寺の五色不動の目黄不動尊)の杜として将軍家の崇敬厚かった。 明治維新前は最勝寺がその別当として管理していたが、明治初年の神仏分離後『牛の御前』の社名を『牛嶋神社』と改め 郷社に定められ、本所の総鎮守となる。全国的にも珍しい三つ鳥居と「狛牛」がある。
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