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 懸賞(その2)    難易度 高        


    ゲーム  
  浅草に眠る秘宝を発掘せよ !!


     


  あなたは
浅草インディージョーンズ
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 出題
 本物の財宝は存在しませんが、ある神社のあるご祭神を財宝と見立てて探していただく、リアル宝探しゲーム
 です。
 浅草ミステリーツアー(特に 梅若伝説、沈鐘伝説、一ツ家の鬼婆伝説)および実践 浅草ミステリーツアー
 ヒントになっていますので、それを見ていただくことが必要となります。(→目次
 なお、
以下の話は管理人が勝手に考えた作り話で、全く事実ではありませんので、誤解ありませんよう
 お願いします。
 
さあ、浅草の秘宝を発見して、賞品をゲットして下さい。

秘宝のあらすじ
     

 室町時代、この地を支配していた豪族が嘉吉の乱に破れ、その一族は滅亡状態となった。
 最後の頭首は、一族の再興を期して、金銀財宝をある社(やしろ)に祭神として隠した。
 しかしその一族は再興がならず、やがてその秘宝のことは悠久の時間の闇にかき消されてしまった。
 しかしその頭首は、秘かに秘宝の隠し場所を1枚の絵地図に残し、その絵地図がこのほどとある古寺の
 床下から発見された。 その絵地図付古文書の内容は・・・

 

絵地図付古文書の内容(現代語訳)


ちょっと伊達正宗公に
似ていますが、無関係
の人物です。




 
 
  古寺の床下から発見された絵地図の一部。
  妙亀塚(当時は堂と庵)が中央に見える。

 私はわが一族の再興を期して、この財宝を
 ある社に祭神として隠した。 


 その社は、隅田川神社
(注@)と姥が池(注A)
 直線で結ぶ線上のどこか。
 次に、妙亀塚
(注B)と、待乳山聖天(注C)
 直線で結ぶ線上のどこか。   
 

 この2本の線が交わったところに、その社は
 存在し、財宝はその社に眠る。
  

 誉田別のスメラミコト、

 伊弉諾尊
伊弉冉尊
(注D)の三柱以外の
 もう一柱の神が全てを知る。

 この資金を使って、必ず一族を再興せよ。

 

   
    ↑     ↑ 

 

  ↓  ↓
   

 (注)方角は概ね上が北。下が南。 
      ただし完全に正確な方位ではない

 注@ 隅田川水神沈鐘伝説の水神が祀られている。 下町ミステリーツアー参照
 注A 浅茅が原の一ツ家伝説の鬼婆が身を投げた池。現在は公園内の小さな池として整備され、石碑も残る。
 注B 梅若伝説の梅若丸の母親、妙亀尼の墓といわれている。 下町ミステリーツアー参照
 注C 下町ミステリーツアーには登場しないが、大根と巾着をシンボルにするなど、謎の多い寺院。 
     待乳山は元は真土山という。
縁起によると・・・推古三年九月二十日、浅草寺観世音ご出現の先瑞として一夜のうちに涌現した霊山で、
その時金龍が舞い降り、この山を守護したことから金龍山と号するようになった。その後、同じく推古九年夏、
この地方が大干魃に見舞われた時、十一面観世音菩薩が悲愍の眼を開き、大聖歓喜天と現れたまい、
神力方便の御力をもって、この山にお降りになり、天下萬民の苦悩をお救いあそばされた。
これがこの山に尊天が鎮座ましました起源であると記されております。
・・・となっている。
一説によると、待乳山聖天様のある丘は、古墳時代の古墳ともいわれている。
      待乳山聖天(本龍院)→

クリック
 注D 伊弉諾尊=伊邪那岐命  伊弉冉尊伊邪那美命  ・・・日本神話の夫婦神で、国生みの神。
     皇祖神アマテラスオオミカミのご両親。日本書紀と
古事記とでは同じ神の名でも漢字表記が異なる。


秘宝発見に挑戦(問題)

 事実その二本の線の交点には、実際に由緒正しき大きな神社が実在します。(交点の多少のズレはお許し下さい。)
 この実在の社のご祭神は誉田別のスメラミコト、伊弉諾尊、伊弉冉尊ともう一柱です。
 このもう一柱の神様を財宝と見立てて、発見したら当社に
その神様のお名前をお答え下さい。


ヒント

 
一番手堅いのは、「浅草ミステリーツアー」を読んでいただいた上で、「実践 浅草ミステリーツアーを参考に
 実際に現地踏査していただくことです。 しかしネット上の地図やウェブサイトを駆使していただいても、容易に
 発見が可能です。 その神様のお名前は漢字で三文字です。



ご注意  


 もちろん本当に宝が隠されていて、それを発掘していただくわけではありません。
 
これまでのお話は全て作り話で、秘宝や財宝というのももちろん実際には存在しません。 
 しかし、この二本の線が交差するところに、本当にその神社(由緒正しい大社)は存在します。
 実際にその神社を訪問(参拝)なさる場合は、神様に対する崇敬の念を欠くことがないようにお願いします。
 
 実在のこの社の一柱の神様を宝に見立てて、それを発見していただくというゲームです。
 正解者の中から抽選で月間10名様まで、素敵な景品(財宝)を進呈いたします。 
 一般の方のご応募大歓迎ですので、奮って挑戦なさって下さい。



 正解者の中から抽選で毎月10名様までに景品(財宝)を差し上げます。



 「謎の下町財宝発見」懸賞 応募方法

 上記のヒントだけで、財宝を発見なさった方は、その設問の答えを当社までメールでお知らせ下さい。
 貴方の郵便番号・住所・氏名もお忘れなく。正解者には粗品ですが賞品(財宝)をお送りします。

 (浅草ミステリーツアーと合わせてご応募が月間11件を越えた場合に限り、
                            月末抽選により毎月10名様までに進呈)

  (お得意先に限らず、一般の方の挑戦も歓迎します。)

 個人情報は賞品送付の目的以外には一切使用せず、賞品発送後は廃棄します。   この懸賞の主催者  

  
柄は上の画像と同じとは限りません。柄は当社にお任せ下さい。
 

                     目次に        


                                 

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 【検証】浅草寺の怪異
     牛の妖怪 浅草寺襲撃事件


 【浅草寺の怪異事件】 速報!(速報といっても800年近く前の速報ですが・・・) 
 
 牛御前伝説の地 武蔵国浅草で怪奇大事件発生!
 

 
浅草寺襲撃される!
               31名が死傷


 
「牛の如き者にやられた・・・」と被害僧が証言

 牛鬼か?
食堂にいた僧50人のうち
                  7人死亡24人重傷

 

 
   現場は目を覆う惨状!


   鎌倉幕府は浅草寺境内に捜査本部を設置し、数百人体制で捜査を開始
 

       

 浅草寺を襲ったのはこんな怪物だったのか?


 現地からの報告によると・・・
     
@           
 隅田川より牛のようなものが突然現れ、浅草寺を襲った。 
                        
A
 事件発生は建長3年(1251年)、3月6日。   死傷した僧は31人にもおよんだ。
                                               
B
 凶器はまだ特定されていないが、事件を目撃した僧の話によると、怪物が毒気を僧らに
        
 吐きかけたもよう。
 
C
 件の怪物は浅草寺の食堂に乱入し、そこで食事中の50人の僧に突然毒を吐きかけた。

 突然の事態に食堂の中は大混乱となり、あまりの恐怖に7人の僧がその場で卒倒し
                                 
D
 そのまま息絶えた。 また毒を浴びた僧侶24人が病気に侵されることになった。

 (注)
   @吾妻鏡以外の書物には、怪物が川から上陸してきたという記載があるようだが、
    本家本元の吾妻鏡には牛のような者が隅田川から上陸して来たとは書いて
    いない。

   A現在の暦で3月29日

   B吾妻鏡には、牛のような者が僧に毒気を吐きかけたとは書いていない。怪異を
    見て、(恐怖のため?)たちどころに7人が死亡し、24人が病に犯されたと
    記されているだけである。

   C件はクダンと読む。ニンベンに牛であるから、まさに人のような牛、
    牛のような人をさす。    妖怪の一種

   D「起居進退居風を成さず」とあるから、その24人は日常生活もままならない
    ほどの状態(PTSD?)になってしまったということになるのだろうか。
    もしそうなら、かなりの精神的ショックを受けたことになる。

 

 この事件については鎌倉時代の公文書『吾妻鏡』に書き記されている。

 吾妻鏡 建長3年(1251年)3月6日 原文(句読点を除く)   

  
  

 
 また『編武蔵風土記稿』による情報では、この怪物は事件後、

 浅草寺の対岸にある牛嶋神社に「牛玉」という玉を残して姿を消したと

 書き記されている。

      


犯行が疑われている妖怪うし鬼。うし鬼の仕業か!?






NOTE   
 

 この事件からわかることは、
 鎌倉時代の浅草寺は、僧を少なくても
 50人は擁する、とてつもない大寺院
 だったということだ。

 すでにこの頃、浅草寺は関東でも
 有数の大規模な寺院であった。
 大寺院がある以上、それを維持する
 ための周辺環境が必要で、何もない
 広大な荒野の真ん中にポツンと
 巨大寺院だけが存在するということは
 不可能だ。
 すでに鎌倉時代以前から、浅草は
 門前町としてかなり栄えていた様子が
 うかがえる。

 この事件の70年ほど前の
 1181年には、鎌倉の鶴岡八幡宮造営
 のため、浅草寺は
 浅草から大工3名を派遣するなど、
 かなりの技術的・経済的先進性が
 うかがえるとともに、
 浅草寺と鎌倉幕府との密接な関係が
 わかる。
 




  


 妖怪うし鬼犯行説が最も有力として流布され信じられているが、

 このような事件が実際に発生したことはまぎれもない事実であろう。

 しかし鎌倉時代とはいえ、そんな妖怪が実際に跋扈していたのか? 

 では果たして事件の真相はどのようなものだったのだろうか!?

 
その真相を検証してみたいと思います。

現在の牛嶋神社

牛のような怪物と牛嶋神社との
関係は・・・?


                                                       暴れ牛?そんな訳ないよ〜
 (1)浅草寺に乱入したものは そのものか? 妖怪の類か? 人間か? 

 
●暴れ牛説

 
 暴れ牛が浅草寺の食堂に暴れこんだという説を唱える人が多くいるが、「牛の如き」とある以上、牛そのものではないことは明白。

 牛に似た何かが浸入したと考えないと、「牛の如き」という表現は成り立たない。

 
●妖怪の類 (牛御前の怨霊の化身=牛鬼))説

 本当に件(くだん)は毒を僧たちに吐きかけたのだろうか。実は吾妻鏡にはそんなことは何ひとつ書かれてはいない。

 当時、この事件を知った人たちは、牛御前の怨霊が牛鬼に変身して襲ったに違いないと思い込んだのは仕方のないことである。

 なぜなら、浅草にはこの事件の約200年前から牛御前伝説が伝承されており、牛御前は滅ぼされてもなお牛の妖怪(牛鬼)になって

 隅田川周辺にいるものと思われていたからである。(牛御前伝承については、この下であらためてご紹介します。)

 妖怪牛鬼といえば、毒を吐いて人を殺し、人を食らうものと昔より信じられていたので、吾妻鏡には「毒を吐きかけた」などとは

 全く書かれていないにも関わらず、毒を吐きかけて僧を死傷させたという説がもっともらしい噂として流布され、一般化したようだ。


 まず、この世に妖怪や幽霊は存在しないという前提で考えれば、牛の如き者(件)は妖怪の類ではない。

 
●人間説

 乱入した件は原文では「牛の如き」となっており、者と表現するくらいであるから、人のような牛ではなく、牛のような人、

 つまり牛のような姿をした人間、あるいは牛のような装束を身にまとった人間という可能性が非常に高いということになる。 

 妖怪や暴れ牛でない以上、これは牛のようないでたちをした人間と考えるのが一番合理的ではないだろうか。

                                 ボクはお食事のお邪魔なんかしませんモ〜ん
 (2)件の浅草寺乱入の時間帯は何時頃なのか?  
            

 牛の如き者が乱入したのは、僧が食堂(ジキドウ)に集まっていた時だから、食事中だったと考えるのが自然だ。

 当時の寺僧は(断言はできないが)一日二食であったと思われる。少なくても平安時代までの日本人の食事は、朝夕の二食だった

 という説が有力だ。その後、朝夕の間に食べた軽いスナック的な中食(チュウジキ)が、やがて昼食となり、一日三食となったと

 言われている。

 旧暦の3月6日は、現在の暦で3月29日。 3月29日に太陽が地平線から完全に昇りきるのは朝5時35分だ。

 当時は照明などの関係で、就寝が現在よりかなり早かったので当然起床も早かった。 一般の人でさえ、ほぼ日没と同時に就寝し、

 日の出以前には起床したといわれている。 いわんや寺僧の場合は、それよりかなり早い起床であったのではないだろうか。

 そうすると、朝食の時間は午前5時30分より前でも不思議ではなく、まだ日の出前の暗い中での朝食であったと思われる。

 では夕食時の可能性はどうだろう。 その日、完全に太陽が沈み切るのは18時である。朝食が早いということと就寝が早いということを

 考えれば、夕食は現在よりかなり早く、15時〜16時であったと思われる。そうすると完全な日没まで2時間以上はあり、天候にもよるが

 まだ外は白昼に近くかなり明るい。 白昼の襲撃も絶対にないとはいえないが、常識的には、暗闇に乗じて行われたであろうから、

 事件は旧暦3月6日の浅草寺の朝食時、具体的には午前4時〜午前5時に発生した可能性が高い。
                                             

 (3)どのような人間が浅草寺を襲撃したのか?

謎の牛嶋神社
(2008年12月28日撮影)

 源頼光と牛御前 そして謎に満ちた牛御前社(現牛嶋神社)

  現在も浅草寺の隅田川のほぼ対岸に実在する牛嶋神社は謎の多い神社である。

 その鳥居は全国的にも非常に珍しい三輪鳥居である。 

 また境内には狛犬ならぬ狛牛や撫で牛など、牛にまつわるものがたくさんある。

 平成20年12月28日、牛嶋神社を参拝した際にうかがった神職の方のお話では、この鳥居は

 確かに珍しい三輪鳥居に近い形であるが、三輪鳥居とは細部で異なっており、牛嶋鳥居という

 独自の形式と言われているそうだ。そうなるとこの鳥居は、全国で唯一の形式の鳥居という

 ことになる。なお、この神社をヒンドゥ教(牛は聖なるもの)と関連付ける説を時々耳にするが、

 奈良時代(8世紀初頭)には現在の本所地区一帯を国営の牛の放牧場とした

 記録があり、その経緯から、この神社がヒンドゥ教と関連するという説には全く同意できない。 

                                        
現在の位置関係 →
                                    (当時の牛御前社は僅かだが今より川上にあった)

 太平記によると、
 
 この浅草寺怪異事件から遡ることおよそ200年前、平安時代の高位の武士である源頼光(坂田金時や
 

 
源 頼光

渡辺綱ら四天王を配下とし、酒呑童子退治や土蜘蛛退治で有名)には、角がはえ牛鬼のような顔をした弟(一説には妹)

がいて牛御前と呼ばれた。牛御前は父に嫌われ、父から暗殺を何度か仕掛けられるが、関東(浅草周辺?)に逃れて

反体制組織を立ち上げ暴れまわる。 当時は中央政府に逆らう勢力は、鬼や蜘蛛などの妖怪・怪物として扱われる

傾向があるので、その人物に本当に角がはえて牛のような顔をしていたとは信じがたいが、牛のような角をもった兜の

いでたちをしていた可能性はある。平安時代の武家の名家の出身だけに、牛御前は武装集団のリーダーとして

指揮・作戦・戦闘能力に長け、関東で非公認軍事組織としての立場を確立し、幕府をかなりてこずらせていたであろう。

 牛御前は水をあやつり、川にはいると身の丈十丈の恐ろしい巨大な牛の怪物に変身したといわれていることから、 水軍を率い、

 舟の航行技術や水上戦に長けていたということも充分考えられる。 事実、都の討伐軍を一時は隅田川で撃破したともいわれている。

 結局、旧知の坂田金時の説得にも応じず、降伏しないまま頼光の討伐軍に滅ぼされるわけだが、滅ぼされた後も牛御前の怨霊は

 浅草周辺に長雨を降らせて洪水にしたり、牛の怪物となって周辺を暴れまわったといわれている。

 吾妻鏡は、あたかもその牛の怪物(牛御前の化身・怨霊)が浅草寺を襲ったのだと言いたげである。 

 隅田川をはさんで浅草寺の対岸の牛嶋神社は江戸時代以前は牛御前社といわれ、この牛御前が祀られていた。

                        ・・・
これは偶然にしては話が出来すぎてはいまいか?

 そのことから以下の五つのポイントが浮かび上がってくる。

 
@当時の反体制勢力の牛御前と関わりの深い牛嶋神社と、鎌倉幕府から厚い庇護を受けた浅草寺の関係は
  敵対関係にあったのではないかと推測できる点

  
  宗教的対立が原因と説く人が多い。 もちろん宗教的対立も視野にいれなければならないが、
  それよりもある集団による金品目当ての押し込み強盗のような感じがする。


 A浅草寺を襲った後に、牛のような怪物が牛玉(ウシダマ)を牛嶋神社に残したという点

  通常、玉(珠)というと、白金(シロガネ=銀)、黄金(コガネ=金)と並び称される「財宝」の代名詞である。
  浅草寺をはじめ体制側から奪った「宝」を牛嶋神社に奉納した可能性が考えられる。
  (同社の神職の方のお話によると牛玉の現物が御神宝として残っているわけではないそうだ。
  あくまでも言い伝えだそうである。)

  または牛玉(ウシダマ)=牛黄(ゴオウ)なのか?・・・この説は下の「牛玉について」で詳細。

  また人魂(人玉)というように、玉は魂に通じる。
  したがって、牛玉を残したということは、その魂が正式に牛嶋神社に祀られ、正規の祭神となったという意味が
  あるのかも知れない。  (公式に後奈良院より牛御前社の勅号を受けたのは天文7年【1538年】だが、
  これはすでに牛御前がこの神社に祀られていたことへの追認であろう。) 


 B牛御前社にスサノオやアメノホヒとともに合祀されていた点
     (現在の祭神はスサノオのミコトとアメノホヒのミコトそして貞辰親王命の三柱)

  スサノオはヤマタノオロチ退治で有名であるが、高天原から出雲に放逐された神であり、
  反体制の象徴とされている。 
  アメノホヒは高天原の体制側から出雲の大国主を説得するために出雲に派遣され、
  高天原への国譲りを促すが、逆に大国主に心酔してしまう神で、
  後に国を譲って高天原勢力(体制)に支配された出雲系(反体制)の神だ。
  牛嶋神社には、これら反体制的な色彩をもった二柱の神様が祀られていることになる。

  特に高天原の最高神アマテラスの弟でありながら、高天原から出雲に放逐されたスサノオの生い立ちは、
  牛御前と共通するものが多く感じられる。


 
Cスサノオは牛頭天王とも習合されて信仰されているという点


 
D牛嶋神社は、隅田川を挟んで浅草寺のほぼ対岸にあったという点
  (現在の所在地よりやや隅田川の上流だったが、おおむね浅草寺の対岸と表現しても支障ない場所だった。)

  新編武蔵風土記稿では、牛のような怪物(件=くだん)が隅田川から上陸して来たとされている。
  怪物や妖怪はこの世に存在しないということを前提とすると、彼(彼ら)は舟で隅田川を渡河したか、
  他の場所から舟でやって来て、浅草地点で隅田川西岸に上陸したことになる。
    
 これらの点から、以下のような可能性を考えてみた。 もちろん推論ではあるが、一定の合理性はあると思う。

  寺に奔走す?















スサノオノミコト
 
牛嶋神社境内の狛牛

 (島崎 靖 様 撮影)

例えば当時の反体制武装勢力が、その約200年前にこの地において中央政府によって無念の死を遂げさせ

られた牛御前を信仰の対象として崇敬し、牛を組織のシンボルとして牛御前神社(牛嶋神社)祭神の牛頭天王

(スサノオノミコト)や牛御前になぞらえて、牛のようなかぶりもの(仮面や兜など)をかぶって、強盗などの活動を

していたとしたらどうであろう。 約200年前から、牛御前の怨霊である妖怪牛鬼の伝承が残る土地柄だけに、

牛のようないでたちをすることによって、人々に牛鬼を彷彿とさせ、一層の恐怖と威圧を与える効果もあったで

あろう。 例えば獅子舞をイメージしていただきたい。獅子舞の獅子頭を牛の頭に付け替えて、野盗集団の先頭

の一人がそれを被って行動するだけで、「牛のようなもの」あるいは「牛のような怪物」に襲われたと当時の人々

は思ったであろう。   また、もしかしたらその集団は、牛御前の子孫を頭目としていた可能性もある。その場合

は、その集団の行為は、幕府にとってはまさに牛御前の怨霊の仕業というかたちでとらえられたであろう。 

 つまりそのような集団が、当時の幕府の力があまり及ばない隅田川東岸(西岸は武蔵の国だが、東岸は下総の国)で、牛御前を祀る

 牛嶋神社を宗教的な拠りどころとして活動していたすると、隅田川を渡って、幕府の手厚い庇護を受けていた(仏教の)浅草寺を襲撃する

 ということもあり得た話である。  そうすると、牛のような怪物に浅草寺が襲われたという話とつじつまが合わないこともなくなってくる。

 また、そのように大規模な反幕府集団の存在を公式に認めたくない鎌倉幕府にとっても、反幕府集団に浅草寺が襲われ多数の死傷者が

 出たたという事実はあまりにインパクトが大きく、またその事実はとうてい隠しがたかった。 そのため当地が舞台の伝説として残っていた

 牛御前の逸話を利用し、幕府側も吾妻鏡の中で反体制勢力を「牛のような怪物」に置き換えて、(牛御前の呪いの仕業であるかのごとく

 匂わせて) わずか数行の簡単な記録にとどめたのではないだろうか。人間ではなく怪物や怨霊の仕業であれば、幕府には治安面での

 責任がなくなるわけで、幕府の権威が傷つくことはない。       ←日の出前のうす暗く混乱した中でこんな兜を被った人を見たら・・・

 そのような政治状況に牛嶋神社が大きく関わっていた(あるいは双方に利用されていた)ような気がしてならない。

 (4)何の目的で件は浅草寺を襲撃したのか?    金銀財宝以外はいらないから、
                                                              牛黄は神社に奉納しちゃおう!
  牛玉の正体  

 現在も寺社で行われている
牛玉(ゴオウ)宝印と、牛のような怪物(件)が牛御前社に残した牛玉(ウシダマ)とは関係があるのだろうか?

 牛玉(ゴオウ)とは牛黄(ゴオウ)のことであるから、それならはたして牛玉(ウシダマ)=牛黄なのか? 

 ちなみに牛黄とは、牛千頭に一頭程度の割合しか採れない希少価値の高い漢方薬。 牛の胆嚢または胆管中にできた結石で、

 漢方薬として有名。 牛玉(ゴオウ)とも書く。 天然牛黄は現代でもかなり高価だが、鎌倉時代には財宝以上の価値があったと思われる。

  A 怪物が牛御前社に残した物   B 牛玉宝印における牛玉   C 希少価値の高い漢方薬
 漢字表記   牛 玉   牛 玉   牛 黄
 表音  ウシダマ   ゴオウ   ゴオウ

 牛御前社に牛のような怪物がウシダマを残して消えたという新編武蔵風土記稿の記録は江戸時代に編纂されたものだけに、どれだけ

 鎌倉時代のことを正確に伝えているかは定かではない。しかしもちろん昔から伝わる伝承などを記した元の記録があったものをまとめた

 ものと思われるので、あながち信頼性を完全否定はできない。

 上記の表を見てもお分かりいただけると思うが、断定はできないまでも、A=Cの可能性は非常に高いように思われる。

 確かに当時、牛黄は非常に貴重なもので、宝といっても過言ではないほどの品であった。 そのため

 件の怪物(鎌倉幕府にとっては野盗集団?)は浅草寺の牛玉(牛黄)をはじめとする金品を狙ったのではないだろうか?

 事件後、件が牛御前社に残した(奉納した?)牛玉(ウシダマ)とは、浅草寺から奪った牛黄の可能性がある。・・・浅草寺の牛玉加持会
 


 推論というものは100人がすれば100の推論が成り立つわけで、この推論が絶対に正しいと主張するつもりはありません。
 鎌倉時代の歴史に詳しいある方からご意見をいただきました。 これは武蔵の国側と下総の国側のそれぞれの水運利権
 争いが絡んでいるのではないか・・・というものです。貴重なご意見ありがとうございました。
 是非貴方の推論をメールでお聞かせ下さい。 いずれにせよ牛嶋神社は、大きな謎を秘めた神社である。  ←件(くだん)君
    

 

  
                                                            
 牛嶋神社 貞観2年(860年)建立       http://www.dentan.jp/sumida/sumida1.html

 古くは現在地より約500m隅田川上流にあったが、関東大震災後隅田公園の設計の都合上昭和の初めに
 現在地に再建された。
 八世紀初頭、桓武天皇のとき、この地を国営牧場と定めたことから牛嶋の名前がつけられたと思われる。
 貞観二年(八六〇年)慈覚大師が御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請して創祀し、後に天之穂日命を祀り、
 ついで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でなくなられたのを、弟子の阿闇梨がその神霊を併せてお祀りし
 『王子権現』と称した。

 貞観二年(八六〇年)に慈覚大師がこの地を通りかかったとき、一人の古老が「師わが為に一宇の神社を建立せよ。
 若し国土の悩乱あらば、首び牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わして、天下の安全の守護たらん」と託宣した。
 そのことから牛嶋神社は牛御前社とも呼ばれている
 治承四年(一一八○年)九月源頼朝が大軍をひきいて下総国から武蔵国に渡ろうとした時、豪雨による洪水の為に
 渡ることが出未なかったが時武将千葉介平常胤が祈願し神明の加護によって全軍無事に渡ることができたので、
 頼朝はその神徳を尊信して翌養和元年(一一八一年)に社殿を経営し、千葉介平常胤に命じて多くの神領を寄進させた。
 永禄十一年(一五六八年)十一月に北条氏直が関東管領であった時、大道寺駿河守景秀が神領を寄進している。
 また天文七年(一五三八年)六月二十八日に後奈良院より『牛御前杜』との勅号を賜ったといわれる。

 江戸時代に於ては鬼門守護(
最勝寺の五色不動の目黄不動尊)の杜として将軍家の崇敬厚かった。
 明治維新前は最勝寺がその別当として管理していたが、明治初年の神仏分離後『牛の御前』の社名を『牛嶋神社』と改め
 郷社に定められ、本所の総鎮守となる。
全国的にも珍しい三つ鳥居と「狛牛」がある。


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  境内の撫で牛。(2008年12月28日撮影)
  1825年頃奉納されたもので
  参拝者の体の悪い部位と牛の同じ部位をなでると、
  快癒するといわれている。

  またこの神社の狛犬は犬ではなく、牛なので
  狛牛ということになる。

  大昔、このあたり一帯は牛の放牧場だったと
  いわれているが、牛づくしの神社である。
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  推薦図書



本体価格1500円 叢文社 
  異界からのメッセージ  渡辺 早苗 著

決して読者を怖がらせるためだけのホラー小説やグロテスクな内容の本ではありません。
浅草で三代続く医院の院長の奥さんである著者の世界に、知らない間に引きずり込まれています。

内容
経営に破れ人生をあきらめた男が、九州の「青の洞門」に流れつく―。「殺人のつぐないを念じ、村人のために30年をかけてノミ
1本で300メートルの岩穴を掘り抜いた僧禅海の霊」に巡り会い、生気を回復する。なにが男を蘇生させたのか―(幻の二人連れ)。
敦煌莫高窟。修業僧と村女の愛欲の壁画にかこまれた密室に迷い込んだ少女は、そこで父と母の秘密を知る。少女は戒律を
破った僧の子だった。母の霊は訴える。戒律にこそ、そもそもの罪が…(秘密の仏たち)。飛鳥の亀石に宿る霊、「正当な理由もなく
斬殺された蘇我入鹿の血にまみれた首が無念の想いをこめて空を飛び狂っている光景」を眼にする…ほか五篇。


著者略歴

渡辺 早苗(文)
  1936年東京に生まれる。桐朋女子高等学校卒業。早稲田大学教育学部卒業。文芸同人誌「遊」同人。
  国際ソロプチミスト東京―葵会員。隅田川市民交流実行委員会会員。日本ペンクラブ会員

渡辺 眞幸(写真)
  医学博士。1931年東京、浅草に生まれる。1943年慶應義塾普通部卒業。1955年慶應義塾大学医学部卒業。
  1965年現地で3代目渡辺医院を継承。慶應義塾大学医学部同窓会前評議員会議長。ホームドクターの傍ら、学校医、産業医、
  労働衛生コンサルタント等を勤める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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